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月極の知識

もし株価が資産価値で評価されるならばこれはちょうどに等しくなる。 A東証一部上場企業のQレシオ平均は、時系列的にかなり安定しており、かつ1よりはるかに低い。
1984年頃から急速に上昇しているが、1986年でも0、5に達していない(表245)0Qレシオの推定に若干の誤差があることを考慮しでも、この比率は低すぎる。 Bわが国上場企業のQレシオを低めている原因は土地にあることは明白である。
土地を時価評価しなければQレシオは1より大きい。 Qレシオは、収主主の価値をみるという点では間接的であるが「現在の」資産価値というより客観的な数字にもとづくことができる。
またM&Aなどにも有効な比率である。 そのような意味から、現在のような変革期においては、Qレシオのほうが(pE「より)より有効な株式評価尺度であるということができょう(カッコ内は筆者による補足)。
リストラによって稀少資産である土地の有効利用が進むことを前提にした学者、研究者グループの期待とは裏腹に、この時期に市場で最も高く評価された産業、企業群は、その経営能力や将来性とは無関係に、単にその当時の公示価格にもとづく土地の「含み益」が多いと思われた銘柄群であった。 このことは198589年にかけて株価上昇率が最も高かった業種のランキングに、端的に示されている。
すなわち、株価上昇率のベスト7をとると1位陸運(511%)、2位倉庫・運輸(474%)、3位建設(448%)、4位海運(426%)、5位金属製品(411%)、6位鉄鋼(394%)、7位不動産(380%)であった。 1990年代前半は、一般にバブル的株価形成が解消された時期といわれる。

日経平均でみると、89年末の3万8、915円をピークに90年に入ると急落に転じ、同年10月には2万221円と、実に50%近い暴落になった。 その後も日経平均は下落を続け、92年8月には1万4、309円までに低下し、その後も一進一退を続けた。
単純平均株価も89年末の1、903円をピークに、92年8月には692円、95年6月には670円へと下降基調が続いた。 株価の暴落にワンテンポ遅れて、上昇を続けた地価も下落に転じ、92年後半あたりから下げ足を早めた。
6大都市閏の平均地価は90年3月を100とすると、91年に103とピークをつけたあと、92年87、93年71、94年63、95年55と下げ続けた。 戦後一貫して日本の経済発展を下支えしてきた「株価・地価神話」は、ここに終わりを告げた。
世の中は不況一色になり、企業収益の悪化、リストラ、倒産、失業増、銀行の巨額不良債権の表面化と貸し渋りという形で連鎖反応が広がり、これが株価、地価のさらなる下落へとつながっていった。 すでに80年代から一桁台に低下していた一部上場企業の平均JOEは、下落にはずみがつき、95年には2、2%にまで低下した。
1株当たり利益も90年の30、9円をピークに大幅に減少し、95年には10、2円と1970年代半ばの水準に落ち込んだ。 わが国の右上がり相場は、何がきっかけで1990年を境に下落に転じたのであろうか。
それは、一言でいえば、わが国経済や資本市場、大企業経営の急速な国際化によって、前述のコール・オプション的株価形成を支えた諸条件がなし崩し的に失われていったからだと考えられる。 その主なものをあげれば、(1)株価を企業のファンダメンタルズにもとづく普通株の適正価値として評価する、純投資動機の海外機関投資家の本格的な参加、(2)資本市場の自由化、国際化の一環としておこなわれた株価指数先物、オプションの本格導入、(3)わが国経済の成熟化、高度化によって、他ならぬ大企業の経営パラダイムが、規模・シェア重視から収益性重視にシフトし、それに呼応して投資家の企業評価基準も変わり始めたこと、(4)89年から始まったBISの自己資本比率規制が、わが国のメインパンクの株式の政策保有に対する大きなディスインセンテイブになったこと、などである(注10)。

BIS規制はわが国の大銀行に対して、リスク調整後で、これまでよりかなり高い財務的リターンを要求するものであり、低リターンの政策保有株式投資を維持するコストを非常に高めた。 また、個々の銀行に対しては、財務的リターンが低く、大きな含み益を抱える保有株式を売却することに、強いインセンテイブを与えることになった。
そして第3に、株式の含み益をTie「Iキャピタルに組み入れることを通じて、株価下落局面では日々の株価変動が銀行の与信能力に直接影響するルートを作り出した。 この結果、B1S規制によって、これまで決して株式を売らない「デレゲイテッド・モニター」として機能してきたメインパンクが、もはやその役割を維持することが困難になったのである。
大蔵省を中心とした様々なPKO(株価維持政策)の試みにもかかわらず、戦後のわが国の経済発展を支えたメインパンク大株主制度は、株価と銀行の与信能力を直接リンクしたところから、ついに劇的な破綻を迎えたのである。 1990年代前半の株価の暴落によって、バブル的な株価形成は解消したといえるだろうか。
3つの評価尺度の変化でみると、そういえるのはゼロ次評価尺度のPBRについてのみである。 すなわちベースになるBPSは90年代に入っても漸増するなかで、株価が大幅に低下したため、PBRは急落した。
そして95年には1、5倍と、実に25年前の水準に戻ってしまった。 しかし他の2つの尺度でみると、依然として70年代から始まった高株価基調の延長線上にあると考えられる。
まず、一次評価尺度である配当利回りの動きをみると、1989年の0、45%をボトムに漸増し、95年には0、85%に高まった。 これは業績悪化にもかかわらず、配当が下方硬直的であるのに対し、株価が大幅に下落したためである。
しかし、日本経済が事実上のゼロ成長と歴史的な低金利が定着するなかで、平均配当利回りは長期金利をかなり下回る水準にとどまっていた。 二次評価尺度であるPE「でみると、高株価状態の持続は一層顕著である。
すなわち、JOE、EPSが3分の近い水準に低下するなかで、株価の大幅な下落後もPE「は高水準にとどまり、とりわけ199396年にはパプル期のピークをも上回る水準に達した。 この結果、9195年の平均PE「は61倍と、86ー90年平均の55倍をよりもさらに高くなった。
このように利益、配当といったフローの価値との関連でみたとき、バブル期の高株価水準が払拭されたとはとてもいえない状態が続いた。 この時期、株価評価が企業の経営効率や収益性を重視する方向に行き始めたとはいえ、基本的には戦後一貫しておこなわれてきた「規模成長ゲーム」が依然として続いてきたことは、前述の高橋の研究を1990年代半ばまで広げた中熊論文でも確認されている(注11)。
中熊論文は高橋の実証研究を71年3月期から94年3月期にわたって、東証1部主要銘柄全件を対象におこなったものである。 その結果、図245に示されるように90年代前半の株価暴落の局面でも、目先の経常利益の増減益率を重視した相対評価ゲームが相場形成の基本であったことが確認された。

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